時々往々にして

すきなことをすきなように書きます

【映画感想】名画座で『ゴジラ』『シン・ゴジラ』観てきた

池袋の新文芸坐で、25日まで54年版『ゴジラ』と16年『シン・ゴジラ』の二本立てをやってて、それの初日上映を観てきた。
www.shin-bungeiza.com
私は『シン・ゴジラ』は3回観たけどオリジンたる『ゴジラ』は一度も観たことなくて。
昨年『シン・ゴジラ』が大流行りしていた時に尊敬してる映画評論家が「この作品にこれまでのゴジラシリーズで一番近いのは初代『ゴジラ』だ」と仰っていたので、あー初代も観なきゃいけないなーと薄ぼんやり思っていたんだけど、観ないままここまで来てしまった。
新文芸坐で2本立てを演るこのタイミングじゃないと一生観ないな、と思ったので足を運ぶことにした。

鑑賞後の感想を端的に言うと、「観て良かった!面白かった!でも言うほど似てるわけじゃない」って感じ。
「観て良かった、面白かった」てのは「劇場だから」良かったってところが大いにあるけど、でも60年前の作品とは思えないほどスムーズに物語の中に入っていけたのはすごい良い作品ってことだなと思った。
ただ、『シン・ゴジラ』とは作品としてけっこう別物で、『ゴジラリバイバルとして『シン・ゴジラ』を(勝手に)捉えていた私のイメージは大きく変わったし、だからこそ観に行って正解だったともいえる。観ないでイメージだけで評価するのってやっぱり良くないな。

ということで、以下に私が感じた『ゴジラ』と『シン・ゴジラ』の共通点と相違点を備忘録的に記す。
もう語られつくした内容だと思うけど、まあ一応ね。
かなり両作品のネタバレありです。

共通点

日本人のトラウマを抉るゴジラ

言わずもがなだけど『シン・ゴジラ』が3.11、東日本大震災のメタファーとしてのゴジラをゴリゴリ描いてきたのに対して、『ゴジラ』はもろ太平洋戦争、こと東京大空襲ゴジラという怪獣の形を借りて再現された…というのは知識として知っていたけど、思った以上に東京が破壊されていてびっくりした。

映像としての迫力は流石に『シン・ゴジラ』に分があるとはいえ、むしろ『ゴジラ』の方が東京破壊描写の徹底ぶりがあって驚かされたよね。
東京のだいたい同じ場所を2作ともゴジラは練り歩くわけだけど、例えば最後の東京の破壊シーンを『シン・ゴジラ』では俯瞰で炎上する銀座なり丸ノ内なりを映していたけれど、『ゴジラ』では隅田川?を挟んだすぐそばにいる人間の目線で映している。
あるいは住民の避難シーンを場所を変え品を変え何度も何度も映す。現場にいる消防隊の無力をしっかり映す。
私は戦争を経験していないけれど、あれは当時の人にとって東京大空襲の記憶そのままだと感じたし、そのあと日本の戦闘機によってゴジラが一時的にでも撤退し、民衆が快哉を叫ぶ、というシーンはある意味戦争の時に感じた儚い願望の発露なのかな、とすこし気持ちを偲んで悲しくなった。

なんであれ、『シン・ゴジラ』も『ゴジラ』も公開時に日本人が抱えていた一番最悪の記憶を刺激するという意味で、一部のマニアを越えて、多くの人に共感される作品になったのだなあと改めて感じたよね。

それから、『シン・ゴジラ』の開幕前に『ゴジラ対メガロ』の予告編が流れて。全然知らない作品だったから予告編見て「なにこの…なに…?」感がすごかったんだけど後で調べたら低予算な中で頑張ったカルト作らしいですね。
それはともかく、その『ゴジラ対メガロ』で一番びっくりしたのはゴジラと人間が共闘するところで、『ゴジラ』と『シン・ゴジラ』から感じる「会話できないヤバいやつ」としてのゴジラと全然違った。
どちらかというとゴジラa.k.a「ヤバいやつ」の方が私は好きかなーと思ったけど、そこもこの2作の共通点なのかもしれない。

最先端の技術で表現された破壊と、地味なラストバトル

これは全くの偏見だったんだけど、『ゴジラ』を観るにあたっての危惧として、「今観ると特撮がショボく感じられて冷めちゃうんじゃないかな」っていうのがあった。
でも、実際に観てみると、大戸島のヘリ破壊シーンとかショボいシーンはあったけれど、一連の東京破壊は非常に見ごたえがあって、今観ても陳腐化していないなという印象を受けた。
ゴジラの眼の怖さ、生物間のなさも相まってこっちくんなってすごく思ったし、火の海に立つゴジラと逃げ惑う人間の合成シーンはけっこうリアルにできていたように思う。
これは『シン・ゴジラ』がオールCGという手段を取らずに旧来の特撮映画らしい特撮を盛り込んでいたことで、私の中に特撮に対する教養が素人なりにある程度できていたからかもしれないな。

あと、『シン・ゴジラ』に対するよくあるマイナスの評価として「ラストの展開が盛り上がらない」っていうのがあって、まあ確かに「はたらくくるまとでんしゃ」でゴジラと決戦するところ、特に冷却液の注入は地味な絵だったけど…『ゴジラ』もそうじゃん!って今回観て思った。
オキシジェンデストロイヤーを海底に眠るゴジラのそばで起動するために芹沢と尾形が潜水するシーン、『シン・ゴジラ』以上に地味じゃねーか(笑)ってなったよね。
なんかこう、もっと海保と連携取ってゴジラを起動ポイントまで誘導するとか、海底でアクシデントが起きて…みたいな展開ないのかって思ったけど、あれはあれで神秘的な海底とゴジラの顔のマッチ感が面白くて良かった。


相違点

物語の軸をどこに置くか

シン・ゴジラ』の何が好きかって、「キャラクターの公私のうち私を一切切り捨てた大胆な脚本演出」なんですけど。
長谷川博己市川実日子も、もしくはゴジラ襲来により死んだであろうわれわれ一般市民も、一切その裏側というか背景が描かれない。
ゴジラという未曽有の災害に対峙し撃退する「公」のロジック以外を全て省略した作劇に、「そう、これを観に来たんだ」という映画に対する無意識の理想を突かれてぐっと来たわけですよ。

それをイメージして『ゴジラ』を観ると、「これじゃない(面白いけど)」って感じがどうしても否めない。
シン・ゴジラ』が「公」で「私」を押しのけた映画なのに対し、『ゴジラは』「私」が時折「公」を押しのけて、それが物語の起伏になってる。
その最たる存在が恵美子で、彼女は公的な身分は特にないけれど大戸島のフィールドワークやゴジラ襲来後の救急病棟、そしてラストの作戦が行われる最前線に何故かいるし、芹沢との個人的な約束を何より優先して、公的な良心を私的な感傷で覆ってしまう。
恵美子というキャラクターは感情移入はしやすいけれど、私が観に来た『ゴジラ』とは少し違うな、と思ってしまった(勝手)。
最初の方、ゴジラが何者か分からないサスペンスな展開は、働く大人がそれぞれの仕事を果たすという感じで『シン・ゴジラ』と似通っていてこれだ!って思ったけど、中盤から終盤の「私」が出てくるところ、特に芹沢のラボで尾形と恵美子が芹沢を説得するシーンは正直ウンザリするくらい冗長だった。これ家で観てたらスマホ弄ってたから映画館でよかったと思うところ。

公と私の対比で言えば、ゴジラを倒す手段が『シン・ゴジラ』では日本という集合体の知によるものだったのに対し、『ゴジラ』では芹沢という一人の天才の知だったのも興味深かった。
60年前より今の方が個人主義的な価値観は明らかに浸透しているのに、それでも私たち現代の大衆がカタルシスを感じるのが「公」の躍動にあるというのは不思議な感じ。
経済の停滞や社会に漂う行き詰まり感が濃くて、『ゴジラ』の頃のように個人の力や「私の可能性」を無邪気に信じられなくなってるのかな…って思ったし、それが「公」や「集団」への依存に向かっているのは決していい傾向じゃないよな、と。

これは『ゴジラ』と『シン・ゴジラ』を一緒に観たから感じられたことで、2本立ての美点だと思う。

繰り返しになるけど、初めて『ゴジラ』を観て、しかも『シン・ゴジラ』と同時に観たことで私の中の先入観が変わると同時に好きな映画をより相対的に見れるようになったことは良い体験だった。
ゴジラ』と『シン・ゴジラ』は日本人のトラウマ再生機としてのパニック映画、という点では確かに似ているけれど、作品のトーンは全然違うなと気づけた。

名画座って初めて行ったけど、2本立てで過去の関連してる作品を連続で観ることの意義を感じることが出来たし、また行きたくなる。
名画座最高やな!って結論を以て本稿を終わりにしたい。